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2004.3 vol.15より
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プロフィール
奈良県生まれ。高校の放送部在籍中に「NHK全国アナウンス大会」初出場で5位に入賞。20歳でタレントオーディションに合格し、1年間番組出演の経験を経て、カジュアルサウンドユニット「OLIVE」のボーカルを担当。福祉コンサートやライブに出演。
(株)ホリプロ、(財)日本ユニセフ協会のバックアップにより、昨年7月に、アジアの子どもたち支援テーマソング「たいせつなきみ」を全国リリース。歌で伝えられることをテーマにミュージシャンとして、また、MC・DJとしても活躍 中、今春にはメジャーデビューが決定している。


幼い頃の記憶

奈良県桜井市。大和一之宮 大神神社は松の内である。折りしも1月15日は大とんどの日で、平日でありながら参道を行き交う人々は増えこそすれ減ることはない。
  石田志芳にとって、ここは数少ない思い出の土地だという。それは子どもの頃、祖母とふたりの兄とでお参りに来たというもの。その頃は、お参りなどは二の次で参道に立ち並ぶ屋台に心をときめかせていた。おいしそうなにおいがして、あざやかな色彩が踊っていた。しかしながら、そんな楽しいひとときの記憶のなかに母の姿はない。
幼少の思い出はことごとく自分のなかから抹消してしまっていた。

  「母は、誰からも認められるようにがんばって商売を成功させ知名度を上げていきました。でもそれがプレッシャーになって、母はその鎧を脱げなくなってしまったんです。私はといえば、商売を成功させて人当たりのいいお母さんの娘なんだから当然いい子であるはずという世間の目につぶされていました」

 
もちろんそれが石田の言う記憶の抹消の理由のすべてではない。もっと奥が深く複雑だ。

  「私は、今は帰化をして日本人になっていますがもとは在日三世なんです。両親は『在日』というコンプレックスからか『世間に対して何人からもばかにされないような生き方をしなければならない』と肩肘張った生活をしていました。父も母と同じ気概でしたが、母とは違うベクトルで生きていたこともあり、父の母に対するDV(家庭内暴力)が毎日のようにありました。母にとって父から受ける暴力の逃げ道は同姓の私しかなく、本当に想像を絶する家庭環境でした。『お父さんと離婚できないのはあんたがいるからや。お母さんを不幸にしてるのはあんたやねん』と母からいつも言われつづけていました。それでも私は母が大好きだったので、休みの日には、殴られようが蹴られようが母の後をついてまわっていました。母を守ってあげたい一心で、勉強もお手伝いも頑張っていたのですが、そんな努力は認めてもらえず、私は常にジレンマを抱えていました。そんななかで私はしだいに自分を否定していきました。自分がいるから、みんなが不幸なんだと思うようになったんです」

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音楽との出会い

石田志芳は昨年初めてマキシシングルをリリースしたミュージシャンだ。 
それまでの石田は大阪のタレントプロダクションに所属し、テレビでの活動歴もあった。
しかし、もともとの志望は歌手。だからあえてテレビの仕事は自ら幕を降ろし、歌を生かすことのできる「歌のおねえさん」の仕事やアナウンスの勉強をしながらMC(司会)の仕事などをこなしつつ、あくまでも歌手を目標に活動をつづけた。活動の場はもっぱら国や自治体などの福祉のイベントである。自分の生い立ちから、児童福祉など子どもたちにまつわる諸問題に強い関心を持ち精力的に動いた。

 「テレビをやめた後、1年半ほどFMラジオのDJをやっていました。短い間でしたが、けっこう反響が大きくてファンもすごく増えました。その間もずっとオリジナルの歌は歌いたいと思っていたのですが、ひとりでは何もできず悩んでいました。でも、偶然ラジオ番組でいいギターさんと出会って『ぜひバンドのボーカルに』と声をかけてもらったんです。そこで私は今まで自分がやってきた音楽活動を話しました。そして『こういう活動をこれからも続けていきたい』と言うと、ギターさんはぜひ協力すると言ってくれたんです」

 こうして、バンド「OLIVE(オリーブ)」が2000年4月に結成された。
石田の音楽の基礎は、幼少から習っていたクラシックピアノや声楽によって形成された。『想像を絶する家庭環境』のなか母は子に何を託したのだろう。

  「音楽を習い出したのは3つくらいのとき。母の理解があったというよりも『お母さんの娘は絶対良くできているはず』なので知識と教養はつけておかないといけない。だから無理をしてでも通わせたというのはあったんだと思います。5、6歳のときにはCDデッキを自分で使えるようになって、ビートルズのCDを聞いてみました。言葉がわからなくても歌を聴きながら歌詞カードの日本語訳を目で追って、なんていい音楽だろうと思いました。家族はみんな遅くまで帰ってこないので唯一、音楽が私と会話をして私を理解してくれているような気がして、部屋でいつも音楽を聴いていました。そして小学3年ごろから英語の歌詞を辞書で引いて読み方を調べて歌い始めたんです。音楽を聴き歌い、アーティストの思いや生い立ちを知ることで私は救われました」

母と子の関係は、あるとき転機をむかえる。 
石田は情緒障害という病気をもっていた。18歳のとき拒食症になったことをはじめ、多くの情緒障害の症状に悩まされた。しかし石田は母に病気のことは黙っていた。それらの症状を起こすことでさえ母や家族に不快感を与えてしまうと考えたからだ。 過換気症候群は呼吸困難になる発作のため、誰にも気づかれぬよう自分の部屋でただひとりこらえるしかなかった。多重人格障害は、「苦しみを背負ってくれる他人」を作り出す病気で、時には男になり過食したかと思うと子どものように泣き出し、あるいは突然立ち上がり刃物で自分を傷つけ、石田は何度も死の淵をさまよった。それらは情緒障害に端を発する症状で、つらい現実に耐え切れなくなった心の叫びなのだった。そんなとき腰を痛めて入院をすることになる。 

「とにかく痛いのに原因が見つからず2週間入院した後で、ドクターから『どうしても原因が見つけ出せないから仮病としか考えられない』と退院を迫られたんです。その夜、私は多重人格障害を起こして母が呼び出され、その発作は私の幼少期がすべて原因だったということが母に知られてしまいました。私は病気を内緒にしていたことを責められると思ってびくびくしていたんですが、そのとき母はドクターに『娘はそんな嘘をつくような子じゃない』と怒鳴ったんです。

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「たいせつなきみ」

母は私をかばったことが一度もなく、兄や父が私を責めたり殴ったりしているときでさえも止めるわけではなく逆にそこへ加担してくるような母親だったんです。
それが目の前でいきなりドクターに怒り出したんです。びっくりしました。『この子は本当に根性のある子やから、この子が痛いというのは相当痛いはずや。私が転院させる』と言って、本当に移る病院を探してくれました。私は母にかばわれて、初めて親の前で涙を流して泣きました。そのときに私は閉じ込めてしまっていた自分の本当の気持ちを初めて母に話すことができたんです。
母も私から初めて聞く―それは叫びにも似た―言葉に驚き、涙を流し、心から『あんたがいたから死なずに生きてこられた。ほんまにお母さんの子どもに生まれてくれてありがとう』と言ってくれました」
 

結局、転院した先で、腰の固定関節のずれのため激痛が出ていたことが判明した。と同時にあれだけ悩まされてきた過換気症候群や多重人格障害もぴたりと止んだ。
 
「日本人って感情を言葉で伝え合うことが苦手じゃないですか。愛していても『愛してる』とは親子でも言うことができない。母もすごくその気持ちがあったけれどうまく表現ができなかった。実は母が育った環境も私と似たような境遇だったんだそうです。親から言われつづけてきた罵声や言葉が染み付いていて、自分の子どもにも思ってもいない言葉をぶつけてしまっていたんです。でも子どもは言葉をそのまま受けとめてしまうんですよね。気持ちってそんなに簡単に伝わるものじゃない。言葉で伝えるということがどれほど大事なことかということに、このとき初めて気がついたんです。このときに歌詞ができたんです。『たいせつなきみ』の歌詞がね」

たいせつなきみ」の詩を読み、曲を聴いた人の感想のなかにこんなものがある。『子どもをもつ世代の人が、喜ぶ歌ですね』。しかし実際には聴く人の多くが10代の少女たちなのだと石田は言う。「それだけこの歌を求めている子が多い」のだと。それはかつて石田が過ごしてきた時間を共有する「傷つき悩める」若者たちが、今もたくさんいるということなのだ。

「でも『たいせつなきみ』というのは所詮は歌なんですよ。聴く人によって受け方が違う。だけど自分の殻に閉じこもったり縛られたりして生きることのむなしさ、それがいかに自分を不幸にしているかということをわかってほしいんです」
 
  「たいせつなきみ」のCDは、(財)日本ユニセフ協会の承認を受けて「アジアの子どもたち支援テーマソング」となっており、その売上の利益は全額ユニセフを通じて募金される。児童福祉に強い関心を持ち活動をつづける石田志芳の思いは国の内外を問わない。
 
  「あまり知られていませんが、ユニセフの設立や活動資金の約8割が日本の貢献によるものなんだそうです。にもかかわらず、日本ではユニセフの活動があまり知られていません。めぐまれない土地や戦時下にいる子供たち――今で言うならイラクの子供たちというのは、想像できないほど厳しい状況にいます。私はそこで日本がユニセフを作る大きな力となったのであれば、もっとこれを応援していくべきなんじゃないかと思ったんです。
  私は日本だけでなくアジアやイラクなどのめぐまれない状況下で、抱く人を失ってしまった子供たちをひとりでもたくさん抱いてやりたいんです。抱かれた子供は大きくなって必ず子供を抱けるようになるんですって。私自身はあまり抱かれた記憶がないのですが、それを何とか私が与えてあげたいと思っています。でも海外にいきなり行って子供を抱かせてと言っても無理じゃないですか」

 
  神社の境内にある大とんどの炎の近くには、願い事がすでにびっしりと書かれた台が置かれていた。石田もペンを手にして、そこにこう書いた。『世界制ふく!』。
  あきらかに誤字ではあるが、無論その意味は武力によるそれではない。あえて言うなら『東ニ病氣ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ』の精神である。しかしそれでも、石田志芳からすればもの足りない。

「素直に言葉で人に伝えることが大切なんです。だっていきなりイラクに行って子どもを抱いたとして、その子どもは嫌がると思うんですよ。まずは言葉で伝えて、そして歌って、心を開いてもらったら抱いてやることができる。そこで初めてコミュニケーションが生まれるんですよ。私はそのコミュニケーションがほしい。抱かせてほしいというのが私の願いじゃないですか。それに対して結果を出す、努力をするということが私の今の活動なんです。歌うこと、そしてそれを伝えることがね」
 

 今年、石田は自分の生い立ちや歩いてきた道をより多くの人々に伝えるためソロのタレントとしてメジャーに再デビューする決心をし、夢を現実にすべく歩き始めた。


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  石田志芳「千里の道も一歩から」を忠実に歩む人だ。石田さんから、やまとびと編集部にイラクの子どもたちの写真を提供していただききました。
  これらは石田さんの曲「たいせつなきみ」が、(財)日本ユニセフ協会の承認を受けて「アジアの子どもたち支援テーマソング」となっている関係から、ユニセフ協会のカメラマンを通じて石田さんに託されたものです。今回やまとびと編集部は、ユニセフと石田さんのご好意により、本邦初となるこれらの写真を公開させていただくことになりました。
  国内外を問わず児童福祉への活動に奔走する石田さん自身の言葉を「たいせつなきみ」の詩とともにご紹介いたします。












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