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1999.4 vol.3より

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プロフィール
かわちくにひら(本名・河内道雄/かわちみちお)
昭和16年 第14代刀匠河内守國助次男として大阪で出生。
  〃     人間国宝宮入昭平(行平)に入門。(相州伝・山城伝を習う)
昭和47年 独立。奈良県吉野郡東吉野村平野に鍛刀場を設立。
昭和59年 人間国宝隅谷正峯に入門。(備前伝を習う)
昭和62年 無鑑査認定を受ける。
平成7年  刀剣製作古法の大和伝を習得。
受賞歴
平成元年  東吉野村無形文化財指定を受ける。
平成2年   奈良県卓越技能者撰定を受ける。
新作名刀展特賞等受賞歴
昭和50年 佐藤栄作名誉会長賞
昭和53年 毎日新聞社賞
昭和54年 高松宮賞(大阪市立博物館蔵)
昭和55年 董山賞
昭和56年   〃
昭和58年 全日本刀匠会々長賞
昭和61年 日本美術刀剣保存協会々長賞
昭和62年 文化庁長官賞
昭和63年 無鑑査出品現在に至る
その他 優秀賞、奨励賞、努力賞等


家系も大事かなあと理解するようになった

―刀鍛冶としては15代目ということですが。
 
はい。しかし、今までは「何代目」ということをあまり自覚していませんでした。というのは、世間には職人で「何代目」という肩書きを使って仕事をしている人がおられますが、その中には実力が伴わない人も多いのです。ですから、「何代目」を語ることはあまり好きではありませんでした。しかし近頃はちょっと考え方が変わってきました。ある場所である家系が技を継承するということがとても大事なことのように思えてきています。それは仕事を続けていく上でひとつの支えになっているとは思います。
  我が身を顧みると、「要は仕事だ、仕事でものをいわなくてはならん」と思って、家系についてはほとんど考えてもみませんでした。しかし、60才を間近にひかえて心の支えや精神的な部分において、家系も、あるいは大事かなあと理解するようになりました。

―やはり刀鍛冶の道へ進まれたのは必然だったのでしょうか。
  というより、もともと絵を書くことや書道とか、ものを作ることが好きだったんです。工芸関係はもうとにかく好きでした。ひとところにじっとして何かを作ることに苦痛を感じなかったし、むしろうれしくてしようがなかったわけです。あるいは私の”血“がそうさせたのかもしれませんね。でもこの道に進ませたのは私がそういう性分だったということの方が大きな要素だと思います。そして一番身近に刀があった、というわけです。これが血統と言われるものなのかもしれませんが。

―ご両親は刀鍛冶になることについてどうおっしゃっていましたか。
  父親は刀匠の家系でしたから喜んでいました。でも母親は泣いて反対しました。というのは我が家がかつて刀鍛冶であったばかりに戦後の武器製造禁止令でずいぶんと苦労をしたわけです。アメリカ軍や警察が探知機を持って調査に来るといって家にある刀や刃物を土の中に埋めたりしていました。そんなことがあったから、母親は猛反対でした。「刀が好きなら研ぎ師になりなさい」と言われましたが、やはり刀鍛冶の魅力には勝てませんでした。

―河内さんのお父さんは刃物鍛冶をされていたのですね。
  はい。私の祖父の代に”廃刀令“があって、祖父が刀鍛冶から刃物鍛冶に転向した
そうです。堺で包丁づくりを教わってスイカ包丁のような大きいものをつくっていました。父親は祖父から刃物づくりを教わったそうです。ところが戦前、戦中は軍刀の需要があったため刀で大変もうけたようです。しかし、戦後は一気に仕事が減り、武器製造禁止令が出たので20年くらいは大変な生活を強いられました。それで奈良県生駒町(現生駒市)へ疎開して来て、再び刃物鍛冶として出発したわけです。そんなこともあって、父親ももう刀の仕事はこないと思っていました。今後、刀鍛冶は滅びるだろうと考えたわけです。


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親方との出会いは何ものにもかえがたい喜び

―師匠の宮入昭平氏とはどうやって出会われたのですか。
  大学4年の頃の履修単位といったら法理学と商学くらいしかなかったし、卒業論文もありませんでした。ですからその頃、私は余った時間を謳歌していました。当時、刀鍛冶というものは、いずれ滅びる技術と思っていたので、刀鍛冶で身を立てることなど考えてもみませんでした。しかしそんな時、ある友人から一冊の本を紹介されました。「刀匠一代」という本で、刀匠宮入昭平の自伝でした。私も興味は感じていたので、それを勧められるままに読みました。

非常に感銘を受けましたね。この人を自分の師匠としてついていきたいと思いました。それで夏休みを利用して信州まで宮入昭平に会いに行きました。半ば押しかけみたいな感じでしたね。初めて会ったその場所で「入門させてください」と言いに行ったわけです。まあ向こうからしたら、こっちは子供みたいなものですし、両親に何も相談せずにやってきたものですから、親方(宮入昭平、以下略)にえらい剣幕で怒られました。「大学出てから来い。中途半端にものをやるな。」というわけです。でも夏休みの約2ヶ月間、ずっと他のお弟子さんといっしょに炭焼きを手伝ったのですが(笑)。親方の炭焼き場(刀を作るための炭を焼く)は信州の山奥だったから、それが街育ちの私からしたら別世界でした。夜は山の尾根で仕事しているものですから、下の方のカラ松の枝と枝の間から”星“が見えました。感激しましたね。それでとにかく夏休みの2ヶ月間ずっと信州にいて、その後卒業するための試験を受けに一旦は帰ったわけです。

―そしてすぐにまた信州に戻ったのですね。
  そうです。たしか大学の卒業式が2月19日で20日にはもう信州に行っていました。5年間、それこそ仕事場の敷地から出る暇も惜しんで修業しました。休みの日でも遊びに行かなかったし、毎日朝早くから仕事をやっていました。夏だったら朝日が昇るのと同じ時間には起きて仕事をするのですからね。宮入という人間と鍛冶仕事を知れば知るほど、宮入に惚れていきました。人生の中には、たとえば大学入学や結婚など、いろいろな喜びがあります。しかし宮入昭平との出会いはもっともっと大きな感激でした。
  親方が亡くなったとき新聞社から「宮入昭平の思い出を書いて欲しい」という依頼がありましたが、書けませんでした。書いたとしても、要するに仕事はきつかった、厳しかった。普段は優しい人だった、ということになってしまいます。それはそうです。当たり前ですが、親方にはそんなことでは言い表せない何かがありました。



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職人として、人間としての”在り方”を伝えたい

―ここ東吉野を独立の地に選んだのはなぜですか。
  父親の知り合いに東大阪で商売している方がおられて、その方がいわゆる”山地主“
だったんです。独立したときに、仕事に専念するために、なるべく人の来ない山深い土地を探していたら紹介して下さったのが、この東吉野村でした。東吉野村が特別に刀づくりに適していたというわけではないのですが、私が刀づくりをしていく上で良い条件がそろっていたのでこの地に決めました。ここは水もいいし、人もあまり尋ねて来ないですからね。約30年前のことですから舗装されている道などほとんどない時代に、よくここまで入ってきたなと思います。しかも夫婦で大阪から入ってきたのですから、村の人もびっくりしたのではないかと思います。

―東吉野での出来事で印象的だったことは何ですか。
  私が独立して仕事場を東吉野に建てた後、親方が来てくれたことがありました。親方は美術や工芸品が好きでよく奈良へ来られることがありましたが、弟子のところへは滅多に来ない人でした。当時、私はコンクールに向けて刀づくりをしていましたが、なかなか思い通りにいかず行き詰まっていました。そんな時、突然親方から電話がかかってきました。親方は電話も滅多にする人ではないので驚きました。
そして、親方が「河内、刀できたか」と聞くので、正直に「今年は出品できないかもしれません」と答えたら、「ばかやろう、やってみろ」と言われて一方的に切られてしまいました。それから3日ほどたつと今度もまた親方から電話がありました。しかも、奈良(日吉館)へ来ているから迎えに来いというのです。コンクールが3月で電話があったのが2月でしたから、本当に切羽詰まっていた時期でした。
しかし、親方からの電話ですから断るわけにもいきません。昼間の内から仕事もやめて慌てて迎えに行きました。しかし、親方は約束の日吉館にはおられず、仕方がないので夕方まで待ちました。親方は私に会うなりえらい剣幕で怒りました。「職人なんてな、仕事を終わらせてから来るもんだ。」というわけです。親方は何時に電話しようが、職人は仕事を終わらせてから来ると信じているのですね。そして、その日は晩の8時ぐらいに東吉野の私の仕事場に来られました。

―その他にも驚くようなことがあったそうですが。
  はい。その翌日、朝5時半か6時くらいに親方は私より先に起きていて、まるで弟子のように私の仕事場で炭を切ってくださっていたのです。びっくりしましたね。そして親方は私に「やれ」というわけです。私も呆気にとられて、とにかく仕事を”させられ“たというわけです。そのうえ、親方が自分からすすんで向う槌まで打ってくれました。そのときは親方ももう50才を過ぎていましたから、かなりしんどいはずでした。これはたいへんなことだと思います。帰るにしても村の中で奈良方面へ出る人を探して、その方に時間を合わせ、その方の車で帰っていかれました。私が送ると言っても「お前は仕事をしてろ」というわけです。親方はかなり寡黙な人でこの時もほとんど言葉はありませんでしたが、親方の言いたいことはいやというほど良くわかりました。こういった教えはなかなかできるものではありません。そして帰り際、妻に「土産を持ってこなかったからな。」と言って一万円をちり紙に包んで渡してくれました。
  私は宮入昭平という支えがあったからこそ今までやってこれたと思います。今でも親方を尊敬していますし、あれほどの人間はもう世に出てこないだろうと思います。

―宮入氏のそういった”教え“があって今の河内さんがあるわけですね。
  刀の道に入り、それを今まで続けることができたのは、そのあたりが原点だったのではないでしょうか。それはもちろん、いいものを作りたいとか一般的なことはありますが、これは職人として当たり前のことです。そんなことより宮入昭平が私に教えたことを私は弟子たちに伝えていかないといけないし、そのことで恩返しをしないといけないと思います。宮入昭平の弟子に河内國平がいる、と世間で言われるようになれば親方も喜んでくださると思います。

―職人が弟子に技を継承していくということは、師匠への恩返しでもあるわけですね。
  私は今の時代、宮入昭平のような人間を作ることはもうできないと思います。宮入から教えを受けた弟子も少なくなってきていますし、時代も世間も変化が速いですからね。宮入昭平が亡くなられてもう20年近くになるので、私が親方から受けた職人としての、また人間としての”在り方“を私も弟子たちに教えられるといいのですが。


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石田志芳