職人として、人間としての”在り方”を伝えたい ―ここ東吉野を独立の地に選んだのはなぜですか。 父親の知り合いに東大阪で商売している方がおられて、その方がいわゆる”山地主“ だったんです。独立したときに、仕事に専念するために、なるべく人の来ない山深い土地を探していたら紹介して下さったのが、この東吉野村でした。東吉野村が特別に刀づくりに適していたというわけではないのですが、私が刀づくりをしていく上で良い条件がそろっていたのでこの地に決めました。ここは水もいいし、人もあまり尋ねて来ないですからね。約30年前のことですから舗装されている道などほとんどない時代に、よくここまで入ってきたなと思います。しかも夫婦で大阪から入ってきたのですから、村の人もびっくりしたのではないかと思います。
―東吉野での出来事で印象的だったことは何ですか。 私が独立して仕事場を東吉野に建てた後、親方が来てくれたことがありました。親方は美術や工芸品が好きでよく奈良へ来られることがありましたが、弟子のところへは滅多に来ない人でした。当時、私はコンクールに向けて刀づくりをしていましたが、なかなか思い通りにいかず行き詰まっていました。そんな時、突然親方から電話がかかってきました。親方は電話も滅多にする人ではないので驚きました。 そして、親方が「河内、刀できたか」と聞くので、正直に「今年は出品できないかもしれません」と答えたら、「ばかやろう、やってみろ」と言われて一方的に切られてしまいました。それから3日ほどたつと今度もまた親方から電話がありました。しかも、奈良(日吉館)へ来ているから迎えに来いというのです。コンクールが3月で電話があったのが2月でしたから、本当に切羽詰まっていた時期でした。 しかし、親方からの電話ですから断るわけにもいきません。昼間の内から仕事もやめて慌てて迎えに行きました。しかし、親方は約束の日吉館にはおられず、仕方がないので夕方まで待ちました。親方は私に会うなりえらい剣幕で怒りました。「職人なんてな、仕事を終わらせてから来るもんだ。」というわけです。親方は何時に電話しようが、職人は仕事を終わらせてから来ると信じているのですね。そして、その日は晩の8時ぐらいに東吉野の私の仕事場に来られました。 ―その他にも驚くようなことがあったそうですが。 はい。その翌日、朝5時半か6時くらいに親方は私より先に起きていて、まるで弟子のように私の仕事場で炭を切ってくださっていたのです。びっくりしましたね。そして親方は私に「やれ」というわけです。私も呆気にとられて、とにかく仕事を”させられ“たというわけです。そのうえ、親方が自分からすすんで向う槌まで打ってくれました。そのときは親方ももう50才を過ぎていましたから、かなりしんどいはずでした。これはたいへんなことだと思います。帰るにしても村の中で奈良方面へ出る人を探して、その方に時間を合わせ、その方の車で帰っていかれました。私が送ると言っても「お前は仕事をしてろ」というわけです。親方はかなり寡黙な人でこの時もほとんど言葉はありませんでしたが、親方の言いたいことはいやというほど良くわかりました。こういった教えはなかなかできるものではありません。そして帰り際、妻に「土産を持ってこなかったからな。」と言って一万円をちり紙に包んで渡してくれました。 私は宮入昭平という支えがあったからこそ今までやってこれたと思います。今でも親方を尊敬していますし、あれほどの人間はもう世に出てこないだろうと思います。 ―宮入氏のそういった”教え“があって今の河内さんがあるわけですね。 刀の道に入り、それを今まで続けることができたのは、そのあたりが原点だったのではないでしょうか。それはもちろん、いいものを作りたいとか一般的なことはありますが、これは職人として当たり前のことです。そんなことより宮入昭平が私に教えたことを私は弟子たちに伝えていかないといけないし、そのことで恩返しをしないといけないと思います。宮入昭平の弟子に河内國平がいる、と世間で言われるようになれば親方も喜んでくださると思います。 ―職人が弟子に技を継承していくということは、師匠への恩返しでもあるわけですね。 私は今の時代、宮入昭平のような人間を作ることはもうできないと思います。宮入から教えを受けた弟子も少なくなってきていますし、時代も世間も変化が速いですからね。宮入昭平が亡くなられてもう20年近くになるので、私が親方から受けた職人としての、また人間としての”在り方“を私も弟子たちに教えられるといいのですが。
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